不謹慎かどうかより大事なこと

震災により自粛ムードが広がっている。
 
各種イベントは中止され、テレビCMも自粛されている。
なぜなら、「不謹慎」だから。
 
では、「不謹慎」とはなにか?
 
まず、不謹慎のボーダーラインを探っている人は、不謹慎。
 
「謹慎する」というのは、「被災者のことを想うとこんなことは出来ないな」という共感の想い。
不謹慎のボーダーラインを探っている人は、共感するよりも先に「どこまでなら不謹慎と言われないか?」を考えている。
だから不謹慎。
 
自粛ムードが窮屈になってきて「俺は自由にやるぜ」という人は、もちろん不謹慎。
なんでもかんでも「不謹慎」と叩けばいいと思っている人も不謹慎。
本当は共感なんてしてないくせに、自粛ムードに押されて文句言いながら謹慎している人も不謹慎。
 
不謹慎、不謹慎、不謹慎… (この過剰な自粛ムードは嫌だな…)
 
でも、重要なのは、「不謹慎かどうか?」ではないと思ってる。
大事なのは、「被災者に想いを巡らせているか?」だと思う。
 
いまの状況では特に、なにをやるにしても賛否両論があり、不謹慎と叩かれる可能性がある。
これは永遠に葛藤し続ける問題だろうし、葛藤しながらバランスを取っていくしかないと思ってる。
 
でも、想いが伴わない言葉だけの「不謹慎」は無意味で、想いの伴わない言葉だけの「謹慎」も無意味。
 
不謹慎かどうかより大事なことは、被災者に想いを巡らせること。
その結果出した答えがその行動なら、とりあえずいいと思う。
 
hijiri