具体と抽象のバランス

ファイナルファンタジー14が発売されましたね。
実際に遊んではいませんが、前作にくらべてグラフィックが圧倒的に向上していて目を奪われます。
 
人間は美しいものを見るとそれだけ心が高揚するものです。
 
それを踏まえて、この動画を見てみてください。
 
トラウマになるほど怖かった『ドラクエ』の名場面シーン
 
ファミコン、スーファミ時代のドット絵ですが、想像力が働いたのはないでしょうか。
 
これら二つの感覚はけっこう違うように思います。
前者のFF14の場合はグラフィックの美麗さに心が揺れるのですが、後者のドラクエの場合は想像力が増幅して心が揺れるのです。
 
グラフィックが向上すると、制作側としてはより細部までイメージを具体的に表現することができますが、受け手側は画一的なイメージを受けやすくなります。
これには良いところもたくさんありますが、想像力を働かせる隙を奪って行くことにもなると思うのです。
 
よく、テレビを見る行為は受動的だと言われますが、それは想像力を働かせる隙がないからです。
すべての情報は画面から流れる映像と音声だけで、自ら考える必要がないからです。
 
一方、漫画や小説についてはどうでしょうか。
 
漫画は静止画だけですが、読み手の中では時間が流れ、キャラクターの声も聞こえているはずです。
よって、漫画が安易にアニメ化されると、漫画を読んで想像していた時間の流れや音声とのギャップにがっかりすることが多いのです。
想像力を削ぎ取られてしまった瞬間です。
 
漫画に限らず、最近、小説がもとになったドラマや映画が多いですが、たいがい原作の方がおもしろいです。
それは想像力が増幅されてうまれる感動があるからです。
 
音楽、特に歌詞についてはどうでしょうか。
 
歌詞を書く時に、聞き手の誰もが共感できることを意識せよとはよく言われていることです。
例えば、誰もが涙するような失恋ソングがあったとすれば、それは聞き手が自分の失恋体験と重ね合わせられているということです。
あまりにも個人的で特異な体験をそのまま書いたのでは、あまり共感を得ることは難しいのでしょう。
 
逆に、抽象的になりすぎで、雲のようにつかみ所のない、印象に残らない作品もあるかもしれません。
 
ただ、耳に残る歌詞というのは、意外に具体的だったりするのが不思議ですね。
 
ゲーム、メディア、漫画、小説、音楽など、具体的でありすぎても、抽象的でありすぎてもよくない。
優れた作品、感動的な作品には、必ず受け手の想像力が働いているように思います。
想像力が増幅された瞬間に「感動」はうまれるのではないでしょうか。
 
具体と抽象の絶妙なバランス、それが隠されているように思います。
 
hijiri